面白ければいいんじゃない?

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北守氏の反ヴィーガン批判を論難する

倫理と自由

北守氏の議論のうち、まずヴィーガンが社会的な運動として肉食を批判する理由、必然性について議論をしている部分には認識の差異は基本的に無いし、その背後にある事実関係、例えば畜産の環境負荷や、倫理的な課題(とされるもの)、それを取り巻く政治状況については異論はない。

ここで、北守氏は「問われることすら個人の自由の侵害」とするような態度を批判する。しかし、批判される側も「回答しない自由」があることは明らかである。また、逆に「他人の自由な行動を、共有されない倫理で裁くことの是非」を問うことも、「問われることすら個人の自由の侵害」ではない以上、当然にあるだろう。ここで、どちらかの「問い」を特権化する振る舞いこそ、妥当性を欠くのではないだろうか。
さらに言えば、そもそも、肉食が環境負荷や動物倫理の観点から批判しうる「悪徳」であることは明らかなのであって、そのため、より倫理的な優位にあるヴィーガンの糾弾に対して通常は*1有効な反論は不可能である。つまり、そのような批判は「明白な正義に基づく人民裁判」に他ならないのであって、そうであればこそ、その裁判への召喚状は破り捨てるしか選択肢は無いし、そうしなければならない。そして、はっきり言ってしまえば、このような糾弾をする態度は、血債主義に基づくマゾヒズム東アジア反日武装戦線のようにサディズムに転化したものに過ぎず、自己の正しさに対する不安を他人にぶつけているに過ぎない。

さて、私はフォアグラが大変美味だと思っており、同時にフォアグラの製造過程が動物倫理の観点から大きな問題を孕んでいることを知っている。そして、そうであるからこそ、私は「それでもフォアグラは美味い」と自己の欲望を無前提に肯定しなければならない。ヴィーガニズムや動物倫理は北守氏のようなインテリによって理論化され擁護され、そして実際にこの社会をより「正しい」方向に導いている。しかし、私の欲望は私しか肯定できない。であればこそ、私はこの欲望を「正しい」ものとして肯定せざるを得ないのである。
結局のところ、リベラルの倫理的優位性により「たましいがわるい」と断罪された我々は、そのような一方的な断罪をこちらもまた一方的に拒絶し、そして、そのような断罪行為を一方的に断罪する権利を一方的に有するのである。そして、それが気に入らないということであれば、この軋轢は「現実の政治」に回収され、それは「運動論」として社会に実装されるより他は無いのである。

運動論

次に「運動論」の問題である。北守氏の言うとおり、もしヴィーガンの直接行動などの個々の行動が「運動論」の問題であるとすれば、反ヴィーガニズムの行動もまた「運動論」の問題である。もし、反ヴィーガニズムの人々がより先鋭的な行動を取るのであれば、それはまさに、ヨーロッパのヴィーガンが「状況」を見て肉屋を襲撃するのと同様に「状況」が理由である。これは、北守氏がまさに恣意に基づいて、ヴィーガニズムの行動を「運動論」によるものとして擁護し、逆に反ヴィーガニズムの行動を「運動論」による擁護から除外しているに過ぎない。つまり、これは単なる「条件付きスターリン主義」である。

そして、ヴィーガンによる直接行動への懸念に対して「妄想的」という批判をするのであれば、北守氏は端的に「保証」をすべきである。つまり、もし仮にヴィーガンにおける直接行動により被害が生じた場合は、自腹を切って補償すると宣言し、必要に応じて見せ金を積むべきである。もしそれが出来ないということであれば、北守氏の指摘こそ「極めて恥ずかしいことを言っているということを自覚するべき」なのである。

自由と責任

「自由意志」に基づく「責任」というのは、その「責任」を負う主体が、構築主義的には「遺伝や社会」によって規定されるものに過ぎず、逆に本質主義的にはそもそも「変更不可能」であるが故に、「擬制」に過ぎないものとなる。そして、その「擬制」は、いわば都合によって恣意的に設定されるに過ぎないものであるのだから、そのことに自覚的であらねばならない。
この恣意的であるものに過ぎない「責任」を「批判的思考」と言って振り回し、血債主義やポリティカル・コレクトネスなどという一種のマゾヒズムに陥り、その罪悪感に耐えかねて他者を糾弾するのは、決して褒められた態度とは言えないだろう。そして、その罪悪感を耐えかねた先にあるのは、レプティリアンの陰謀という妄想である。

*1:例外として、病気で動物由来の成分を摂取しないと健康を害するとか、少数民族の伝統文化であるといったような倫理的優位性は存在しうる。

注意:ここに書かれていることは筆者の個人的見解であり所属する組織などの意志を表すものではありません。