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面白ければいいんじゃない?

やくたいのないこと、痛々しいことばかり書きます。

なぜオタクに「自浄努力」が働かないのか? 生島勘富氏の議論の見落としについて。

文化

はじめに

さて、生島勘富氏(id:Sikushima)が広島の女児誘拐事件について容疑者がプリキュア好きであったこことに対して、その報道の在り方に肯定的な議論を行っている。
プリキュアの報道は妥当 : アゴラ - ライブドアブログ


ここで生島氏は、プリキュア等の女児向けアニメを見る成人男性、いわゆる大きなお友達側に立った批判に対して「自浄努力」が足りず、結果、より強い規制を生むことになると議論をしている。確かに、生島氏の主張のとおり、ペドフィリア的性癖とアニメ愛好という趣味を分離させられないならば、より強い規制の動機になりうることは想像できる。
しかしながら、私はこれが実は一体不可分のものであると考える。本稿ではこの問題について、なぜアニメ愛好者側の批判が、これを分けて、つまり我々と彼らは違うのだ、という議論をしないのかということを考えてみたい。

オタク文化の歴史的背景とエロティシズム

さて、アニメに代表されるオタクの想像力はどこからやってきたのだろうか? 歴史をひも解いてみよう、大塚英志の「「おたく」の精神史」は最初、自身が編集した漫画ブリッコのあたりから議論をはじめている。漫画ブリッコは、はっきり言えば「ロリコンマンガ雑誌」要は、可愛らしい女の子の絵が描かれたエロマンガ雑誌であった。今でこそ、サブカルチャー史を考えるうえで欠かせないものではあるが、少なくともその当時は公然と評価されるような雑誌ではなかった。
その頃から、年端もいかない少女であるクラリス(ルパン三世カリオストロの城)に欲情するようなビョーキの人間が多数いた。もっとも、そのメガホンをとった宮崎駿もまた、独特のエロティシズムを持った作品である哀しみのベラドンナ(虫プロ,1973)などからインスピレーションを得ていたわけだが、少なくとも当時からエロ、そしてロリコン、あるいはペドフィリア的想像力ととオタクは切っても切り離せない関係を結んでいた。
80年代末には宮崎勤事件が発生する。ここで当時のオタクたちは、消費者も、そして生産者も自分たちが宮崎とは違うと宣言することができなかった。宮崎はオタクであるがゆえに犯罪を起こした、とは断言できなかったが、同時に宮崎はオタクではないというのも断言できなかった。

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論


その後、アニメ不毛の時代を経て、90年代半ばにはエヴァンゲリオン、そしてそれに続く形で美少女ゲーム、要するにエロゲーによる文化がオタク界隈を一気に席巻する。また、今に続く深夜アニメの大量放送も始まるのである。
エヴァンゲリオンは大きく市場を席巻し、非オタク層にも訴求した稀有な作品であった。しかし、同時にエヴァンゲリオンには性的モチーフがちりばめられ、そして、またロリコン的想像力を惹起した。その後に続いた美少女ゲームブームに至っては、もともとが18禁のエロを前提とした作品群であり、ロリコン的、あるいはペドフィリア的想像力がその前提を形成していたと言っても言い過ぎにはならないだろう。東浩紀はこの時に形成されたオタク文化の在り方や、そのコンテンツ消費の傾向などを「動物化するポストモダン」にまとめたが、これを読む限り、美少女ゲーム的想像力が、その後のオタク文化の方向性に多大な影響を及ぼしたことが理解できる。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


ここ最近になると、美少女ゲームシナリオライター出身の虚淵玄がシナリオを書き、美少女ゲームで名前を変えて原画を描いてきた蒼樹うめ*1がキャラクターデザインを行った「魔法少女まどか☆マギカ」が大ヒットを博した。また、原作が美少女ゲームであるFate Zeroも人気を博した。ヤマグチノボル田中ロミオといった美少女ゲームのシナリオライター出身のライトノベル作家も多数作品を書いており、アニメ化するなど人気を博している。
総じていえば、オタク文化はその期間全体にわたって、特殊なセクシャリティの形成とともに歩んできたと言える。精神科医の斎藤環は萌え文化を戯画化されたセクシャリティと評したことを述べて、この部分の議論を締めくくろう。

フォークデビルとしてのオタク

さて、前項で議論したように、オタク的文化はロリコン的、あるいはペドフィリア的感性とともに形成された特殊なセクシャリティを有していることが分かった。しかし、それは反社会的と断言できるかは横に置くとしても、少なくとも社会的に褒められた趣味ではないことは容易に理解できる。このことを生島氏は明確に述べている。





まさに、生島氏の主張は「常識的」である。常識的に考えれば、ペドフィリア的な嗜好は、その客体となる女児あるいは男児の自由意思と自己決定権が限定的であるがゆえに永久に現実では果たされないものであるし、そうであるがゆえに「罪」である。しかしながら、同時に前項で議論したようにオタク文化と「ロリコン的、あるいはペドフィリア的感性とともに形成された特殊なセクシャリティ」はその歴史的文化的背景から一体不可分のものであると言える。ゆえに次のような生島氏の主張を実現することはは極めて困難である。




もし、生島氏の主張を実現しようとすれば、つまりオタク文化から萌え的なものからロリコン、あるいはペドフィリア的嗜好を脱臭しようとすれば、それはもはやオタク文化でも萌え文化でも、なんでもなくなる。眼の大きい独特な絵柄も、戯画的なセクシャリティの誇示も、テンプレ化したラブコメも… それらの裏打ちにはロリコン、あるいはペドフィリア的嗜好が透けて見えるし、だからこそ売れもした。
ゆえに、オタク側の主張は、どうしても法律を盾にした「ペドフィリア擁護」をせざるをえなくなる。




なぜ、彼らは「性癖は自由」「自由は権利」に固執するのであろうか。それは、社会的にそれが認められないからである。そしてまた、それがオタク文化と一体不可分の存在だからである。もしこれがもっと些末なことであれば、だれも反論しないだろう。しかし、これがいわばオタクの少なく見積もっても30年にわたる歴史の根幹をなしてきたものであり、その上に今のオタク文化がある以上、ここに固執しなければならなくなる。そしてまた、それが社会的に認められがたいということを承知しているからこそ「法」に縋って権利を主張するのである。これが社会的に認められた趣味ならば何も問題はないだろう、しかし、それが社会的に認められがたいからこそ「法」に執着し、反論をしなければならないのである。

おわりに

さて、オタク文化が「ロリコン的、あるいはペドフィリア的感性とともに形成された特殊なセクシャリティ」と不可分であること、そしてそれが社会的に認められがたいこと、そのために「法」を盾にとって社会的に認められがたい性癖を擁護せざるをえないことを論じた。それが故に「自浄努力」が不可能であることはもう明らかである。
オタクたちは今でも思っている。自分たちがいつ明日の宮崎勤になるかわからないこと。同時に明日の宮崎駿でもあること。私たちの中には二人の宮崎が同居しているのだ。
オタクの中のペドフィリアは罪である。しかし、それは逃れられない原罪である。

*1:本人は生き別れの妹と冗談めかして言っているが

注意:ここに書かれていることは筆者の個人的見解であり所属する組織などの意志を表すものではありません。