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面白ければいいんじゃない?

やくたいのないこと、痛々しいことばかり書きます。

続・なぜオタクに「自浄努力」が働かないのか? スーパーフラットとスノビズム

はじめに

さて、私はなぜオタクに「自浄努力」が働かないのか? 生島勘富氏の議論の見落としについて。 において、歴史的にオタク文化が「ロリコン的、あるいはペドフィリア的感性とともに形成された特殊なセクシャリティ」を重要な部分に据えていたために、ペドフィリア的嗜好を切断処理できない、つまり「自浄努力」ができないということを議論した。
本稿では、さらにこの議論を進めて、オタク的想像力の一つの結果である村上隆スーパーフラットという概念、そしてオタク文化におけるスノビズムという観点から「自浄努力」が難しいことを議論したい。また、最後に「自浄努力」―実質的には切断処理―の帰結としての奴隷の平和について論じる。

スーパーフラット

芸術家村上隆はその芸術的手法をスーパーフラットと形容している。古典的な浮世絵などに見られる平面的な絵と、現代のオタクカルチャーの平面的なイラストを接続する議論である。本稿では、このスーパーフラットという概念における、文化的側面、つまりハイカルチャーポップカルチャー、あるいはその他の芸術運動や批評を同一平面上で扱う文化的運動としての部分を考える。
具体的に見てみよう。週刊アスキー副編集長の福岡俊弘は、初音ミクなどのキャラクターを使用した3Dアニメーションを制作するツールであるMMDを評して、人形浄瑠璃との関連性を議論している。*1確かに、福岡の指摘の通り、人形浄瑠璃とMMDの表現技法は似通っている部分がある。同時に、MMDはロリコン的感性もまた引き継いでいる。初音ミクの人気のあるモデル*2であるLat式初音ミクは「あざとい」と言われる。

  • すらりと伸びた細い手足がニンフェット的な魅力を醸し出してきてあざとい
  • まさに凝脂と呼ぶべき色白な肌があざとい
  • 清純派をアッピルする純白ノースリーブとかあざとい
  • セーラー服とか鉄板であざとい 夏服半袖白セーラーでさらにあざとさが増した
  • ほのかな芋っぽさを醸し出す学校指定上履きとかスニーカーとかあざとい
  • ハイソックスで露骨にひざこぞう感をアッピルしてくる…あざとい
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%82%E3%81%96%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%99%E3%81%8Clat%E5%BC%8F%E3%81%82%E3%81%96%E3%81%A8%E3%81%84

有体に言って、フェティシズムであり、ロリコンであり、社会的に認められがたい。このようにMMDにおいては、人形浄瑠璃という日本の伝統文化、ハイカルチャーの嫡子という評価と、ロリコン的想像力というものが同居している。ただし、人形浄瑠璃が当時のフェティッシュを体現していた、というのも考慮はしなければならないが、一般に評価しがたいロリコン的感性と、高尚なハイカルチャーの想像力が同居しているということは注目に値する。
その他にも見てみよう、先ごろTVアニメでヒットを飛ばしたFate-Zero-はもともと18禁の美少女ゲームであるFateから作品の展開が始まっている。このFateという作品のヒロインであるセイバーを見てみよう。騎士の格好をした美少女である。彼女はアーサー王の英霊という設定になっており、そのほかのキャラクターも他の神話や古典的物語の登場人物の英霊という設定になっている。ここでは、卑俗な18禁美少女ゲームとアーサー王伝説に代表される古典的作品や神話が接続されている。スーパーフラットを提唱した村上隆もまた、精液をまきちらしている美少年の等身大フィギュアを芸術作品として発表し大きな評価を得た。
こういった、高尚なものと低俗なものを引き寄せ、そして同等なものとして拾い上げる感覚がオタク文化には根強く存在しており、そのような議論は、スーパーフラットだけでなく、東浩紀が「動物化するポストモダン」で論じたデータベース‐シュミラークルモデルなど、多くの論者が議論している。そう、ここではすべてが同等に価値があり、そして価値がないのである。

スノビズム

前項で議論したように、オタク的想像力では様々な概念がフラットな同一平面上に置かれ、そこから要素を取捨選択する形で表現がなされていることが理解できた。しかし、ただ拾い上げれば良いというものではない。表現には評価の高いものと低いものが厳然と存在する。
ここで、この評価軸としてオタクのスノビズムという観点から議論をしてみよう。
「紳士」という言葉がある。オタク界隈で「紳士」と言えば、それは「変態という名の紳士」ということを意味する。元ネタは増田こうすけのマンガ作品である「ギャグマンガ日和」のキャラクターのセリフである。言うまでもないが、スノビズムの意味は紳士気取り、といったようなものである。このような意味的接続からオタクのスノビズムをこの「変態という名の紳士」という考え方から見てみたい。
言うまでもないが「紳士」は「変態」ではない。むしろ「変態」とは対極にあるような存在を「紳士」と呼ぶべきである。しかし、ここで意味的転倒がなされる。「紳士」は実体的な価値のない「名誉」などを持つ。同様に「変態」もまた実体的価値のない行為や物に価値を見出す。ペドフィリアに実体的価値はない。生殖年齢に至らない子どもを性的対象とすることは子孫を残すという実体的価値を持ちえない。フェティシズムやその他の倒錯的嗜好も同様である。
ここにあるのは、あえて価値のないような、それどころか社会的に非難の対象となるようなものに価値を見出し、それを追及する姿勢である。パンツァーと呼ばれる人たちが居る、彼らはアニメに出る一瞬のパンチラシーンを血眼になって探す。ストライクウィッチーズというアニメ作品がある。どう見てもパンツにしか見えない下衣をズボンと呼称し、それを着用した美少女が空を飛び戦うアニメである。これのキャッチコピーは「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というものであった。どう見てもパンツしか見えないがパンツではない。これは極めて倒錯した主張であり、意味がない、が新たな価値を見出している。
高々そばを食うだけの行為に文化的意味をつけて価値を付与した先人が居た。同様に、現代においても「紳士」を自称するオタク達は、価値のないもの、不合理な主張、低俗な風俗に文化的意味を与え、価値を付与している。これはまさにスノビズムである。

奴隷の平和

さて、これまで議論したように、オタク文化において高尚な文化と低俗な文化が「スーパーフラット」として同等に扱われ、接続され、そしてそれが「変態という名の紳士」というスノビズムにより評価されることを確認した。当然、このような環境においては、特定の嗜好を下劣である、社会的に認められにくい、という理由で切断処理することは難しい。ここではむしろ、下劣で社会的に認められないからこそ価値が生じるからである。
ここで、社会との軋轢を回避するために切断処理を行えば、それは確かに一時の平和を享受できるかもしれないが、しかしそれはまさに奴隷の平和である。現実的な妥協点、あるいは歩み寄りとしてのゾーニングなどは理解ができる。それは、価値がないものに価値を与える想像力を完全に封止するわけではないからだ。しかし、切断処理を行ってしまえば、それは「価値がないものに価値を与える想像力」そのものを毀損し、「スーパーフラット」は今までのハイカルチャーとロー(ポップ)カルチャー、メインカルチャーとサブカルチャーの四分裂に回収され「スノビズム」は単なるいい子ちゃんになってしまう。そこでは、ペドフィリア的嗜好を持つ人間の首が差し出され、ゲットーの警察が正義を規定し、想像力が失われる。
ゆえに特定の嗜好を切断処理する「自浄努力」が働かないのだ。もし、それをやってしまえば、自殺行為になってしまうのだ。

*1:http://ascii.jp/elem/000/000/634/634796/

*2:MMDでは初音ミクという一つのキャラに対して多くのクリエイターが様々な3Dモデルを制作している。

注意:ここに書かれていることは筆者の個人的見解であり所属する組織などの意志を表すものではありません。