面白ければいいんじゃない?

やくたいのないこと、痛々しいことばかり書きます。

10年代後半は人外の時代…かもしれない。(R-18注意)

注意

この記事そのものは成年向けではありませんが、エロマンガなどのR-18の要素について記載しています。

はじめに


去る8月31日に発売されたZトンの新刊である「こんな軆でいいのなら (キャノプリCOMICS)」の売れ行きが好調なようである。

こんな軆でいいのなら (キャノプリCOMICS)

こんな軆でいいのなら (キャノプリCOMICS)

昨年になるが音音丸「恋するケモノと人外は… (ムーグコミックス)」、今年に入ってからもみぞね「鬼ヶ島の許婚 (ムーグコミックス)」、AHOBAKA「僕だけの向こう側 (TENMA COMICS G4M)」、ほりとも「気になるあの娘はモンスター娘 (アンリアルコミックス)」などと、人外やケモノを対象としたエロマンガ複数の出版社からコンスタントに発刊されているという状況にある。まだ商業での単行本は未発売であるが、商業アンソロジーや同人で活躍する鉄巻とーますのように、ある種のグロテスクさを兼ね備えた人外もののエロマンガが一定程度*1受容されているというのは、非常に興味深い事態である。
一方、全年齢向けに目を向けると、やはりオカヤド「モンスター娘の日常」の成功は重要である。昨年6月のニューヨークタイムスのベストセラー・マンガ部門において1位を飾るなど、海外においても受容されており、また現在放送中のアニメもそれなりに好評を博している。去る8月に開催されたコミックマーケット88では、ヒロインのラミア*2であるミーアの7mもの長さで10万円もする抱き枕を発売し、しかもそれがすぐに完売するなど大きな盛り上がりを見せている。
モンスター娘のいる日常 1 (リュウコミックス)

モンスター娘のいる日常 1 (リュウコミックス)

さて、もちろん、人外やケモノというジャンルは常に一定程度の存在感はあり、ケモノが好きな人たちはケモナーと呼ばれオタク界隈ではそれなりに認知されてきた。しかしながら、ここ数年*3その存在感は増しているように思える。いや、むしろすでに「人外ブーム」「ケモノブーム」が到来していると言えるかもしれない。
そこで、本稿では、集団としての性癖が社会的な作用によって形成されていくことを議論して、そのメカニズムを明らかにしたい。なお、本稿では北米でのケモノ、ファーリー、MLP:FiMのことなどには触れない*4

1980年代のロリコンブーム

1980年代は少女のヌード写真集*5が徐々に浸透し、エロマンガにおいても、それまでの写実的な劇画調の作品から、レモンピープル、漫画ブリッコ吾妻ひでおとデフォルメされたかわいらしいキャラクターによるものへと変わっていった時代である。なぜこのような変遷を遂げたか、諸説はあるものの、私はその原因を「わいせつ規制の回避」という文脈で考えてみたい。
わいせつ表現に関する判例として著名な、1980年の四畳半襖の下張事件の最高裁判例*6では1957年のチャタレー事件判例*7に引用するとともに継承し「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」を規制の対象として改めて判示した。
ここで筆者が重視するのは「普通人の正常な性的羞恥心」という概念である。つまり、普通の人が性的羞恥心を惹起しないならば、それは「わいせつ」ではないということになる。ここで改めて1980年代の社会的状況を見ると、例えばテレビにおいて二次性徴前の女児、あるいは男児の性器が映ることは特に大きな問題にならなかった。あるいは、水場で子供が裸で遊んでいても特に問題はなかった。つまり、当時の価値観を斟酌すると、二次性徴前の身体にわいせつ性は認められないということになる。これはマンガ表現も同様であって、写実的なものであればあるほど、性器が精密に描かれれば描かれるほど「わいせつ」であると判断されやすいということになる。これは、2005年の松文館裁判判例においても「性器の形態や結合・接触状態の描写がはなはだ生々しいものとなり」と判示されているように、現在でも効力を有していると考えられるのであるし、あるいは、刑法175条ではなく、特別法である児童ポルノ法をもって児童ポルノを規制していることもこの延長線上で考えることが可能である。
いずれにせよ、1980年に四畳半襖の下張事件の判決が出た中において、その時の出版社や漫画家などの方向性として、ポルノ表現において写実的なものを排すという意識を植え付けたことは想像に難くない。そして、この問題は「絵柄」という俗人的な要素に縛られる個別の作家というよりも、社会的な、あるいは集団的な意識においてこそ立ち現れていると筆者は考えるのであり、であるからこそこれを一つのムーブメントとして把握しておきたい。

ロリコン規制からの逃避

さて、しかしながら1990年代から2000年代に入るとこの状況は一変する。1989年の宮崎勤事件、1991年のコミケ幕張メッセ追放事件などで、いわゆるロリコン的な存在やマンガ表現が一種のフォークデビルとして非難されるようになる。1999年には児童ポルノ法が成立し「わいせつ」ではない「ロリコン」そのものが社会的な悪として認識されるようになってくる。もちろん、現在においても児童ポルノ法においてはマンガなどの創作物は規制対象外とされているが、マンガや美少女ゲームに対しては断続的に避難や規制を求める声が出ており、実際に国外ではカナダなどでは厳しい規制が敷かれており、オランダでは日本のエロマンガを所持していたマンガ翻訳者が裁判にかけられる*8などの事態が生じている。
さて、このような社会的背景の中で近年の人外、ケモノブームと言えるかのような状況をどのように把握すべきか。これは、まさに写実的で肉感的なものが「わいせつ」として規制されたために、写実的でないものや肉感的でないものとしてロリコンがブームになったのと同様に、人間的でないものを扱うようになったとは考えられないだろうか。
例えば、私が牧場に行き牝馬の性器の写真を撮影し、それを頒布したとしよう。これは、なんら法律上問題ない。人間以外の動物の性器は「わいせつ」でもなければ「児童ポルノ」でもない。撮影の際に苦痛を与えれば動物愛護法上の罪に問われるかもしれないが、そういった部分での配慮があれば法的な瑕疵はない。
その上でさらに、このような法的回避行動に走った作品が増えることは、逆に読者をしてそれに性的興奮を覚えるように馴致される。経済において需要が供給を生み出すセイの法則があるように、性的な欲望もまた供給によって需要が惹起されるのである。昭和30年代の日本にLOを持って行っても決して売れないだろうが、しかし現在の日本では一つの市場を形成する程度にはロリコンマンガは売れているのである。

おわりに

さて、ここまで議論してきたように、ある種の規制からの逃避として新たな市場が開拓され、それまで性的な感情を惹起しなかったものをそうであるように変質させるという現象がこの世界には存在している。ヴィクトリア朝のイギリスで、椅子の足がエロいとカバーをかけられながら、女性が極めて細いコルセットでウェストを締め上げていたように、そのまなざしを止めることはできず、止めようとすれば捻じ曲がるしかないのが人間の性である。あるいは、岩の割れ目に水がしみこむように、集団としての人間は規制から逃れて小さい隙間を満たし、そして最後は割れ目を拡大し岩を打ち砕く。
そして、今、その最先端は「人外」や「ケモノ」にあると筆者は考えるのである。*9

*1:換言すれば、商業的に成立する程度に

*2:蛇のモンスター

*3:「モンスター娘の日常」の連載開始は2012年。もともとは、webに投稿された1ページマンガから派生した。

*4:単なる筆者の知識不足なので、誰か書いて

*5:今では単純所持も認められない

*6:昭和55年11月28日最高裁判所第二小法廷判決

*7:昭和32年3月13日最高裁判所大法廷判決

*8:無罪となったが

*9:ここでは「ロリコン」「人外」「ケモノ」などの描写について議論をしているが、これは近年多く見られる、いわゆる「断面図」表現も通底していると考えられる。

注意:ここに書かれていることは筆者の個人的見解であり所属する組織などの意志を表すものではありません。