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続続・なぜオタクに「自浄努力」が働かないのか? オタクの原罪、あるいは愛について

はじめに

さて、私は、オタク文化がロリコン的、あるいはペドフィリア的感性とともに形成された特殊なセクシャリティと不可分であることと、高尚なものも、社会から眉を顰められるものも一緒に扱い、そしてそれをスノビズム的に価値づけるものとして議論した。
なぜオタクに「自浄努力」が働かないのか? 生島勘富氏の議論の見落としについて。
続・なぜオタクに「自浄努力」が働かないのか? スーパーフラットとスノビズム
また、その問題を基礎に生島勘富氏らと議論をした。
生島勘富氏のオタクと犯罪の関係の問題について、文化的側面からの議論 - Togetter


ここでは、議論の前提として以下の考えを明らかにしておく。

  • オタク的文化は、社会的に価値が低く見られがちである
  • 一般的な感性からは、社会的に価値が低く害悪と感じられる感性に基づく文化は迫害される
  • 社会的に害悪と感じられるかは実態とは関係がない

つまり、実体的な相関関係や因果関係というのは本質的な問題ではない。社会的に害悪と感じられるか、いわば嫌悪感が問題の本質であり、またその嫌悪感は議論の正確さや実態と関係がなく、また無視をする。よって、反論するだけ無駄な事項である。
具体的に言えば、子どもを持つ親の少なくない割合はいわゆる「大きなお友達」に嫌悪感や恐怖を覚える。特に性犯罪や子どもを狙った犯罪が発生した場合は、それが顕著になる。また、そういった文化に理解のない層、つまり社会の主流派はそのような恐怖心や嫌悪感に共感をする。また、それを報じるマスコミも、読者の主流派の感性に合致するように振る舞う。これらは、基本的に不可避の事項である。そして、それを根拠に迫害や差別、弾圧、規制が行われる(こともある)。
私はこれに承服しているわけではないことを言わなければならないが、しかし現状は現状として認識をしなければならない。私が何を言おうと、私に近い人ならばいざ知らず、多くの赤の他人の嫌悪感を解消することは不可能か、きわめて困難な事業であると判断しなければならない。


ここで、本稿では、改めて最初のエントリで記述した「原罪」という概念を検討し、生島氏との議論を行いたい。また、個別の作品名や現象の記述をできるだけ廃し、こういった文化に詳しくなくても理解できるように努力をしたい。

タブーを乗り越えるオタクたち

さて、原罪とはキリスト教の概念である。エデンの園で神のいいつけを破り知恵の実を食べたアダムとイブの罪である。ここではキリスト教神学の話が本質ではない。本稿での「原罪」というのはそのシステムがアプリオリに持つ「罪」であると定義する。
なぜ私はオタクが「原罪」を有すると考えるのか。なぜ、オタクがアプリオリに罪を背負わなければならないのか。それはオタク文化そのものが「罪」を生み出すからである。
オタク文化の「罪」とは何か。それは、すべての文化的価値、それは反社会的なものであったり社会的に害悪と思われるものも含むわけだが、それを肯定的に扱う、あるいは扱いうるところにある。これはすでに私が書いた記事に詳しいが、オタク的なスーパーフラットな世界では高尚なものと低俗なものが同一平面上に置かれ、そして、それがスノビズム的感性により拾い上げられるのである。
この感性は、常識や良識に挑戦する。ニコニコ動画やpixivを見てみよ、倒錯的なコメントやタグが、洒脱な解説とともに乱舞している。特に、ロリコン的あるいはペドファイル的感性は、そのオタク文化の歴史的経緯から、冗談を交えながらネタ的に語られつつ、社会的にはお世辞にも褒められない表現を生み出し続けている。


これは肯定的に見れば虐げられたり蔑ろにされる文化を拾い上げ、そして価値をつける行為である。しかし、虐げられ蔑ろにされる文化は、(たとえそれが偏見に過ぎなかったとしても)社会的に害悪とみなされているからこそそのような立場に置かれている。そこであえて社会的に害悪とみなされているような文化を拾い上げようとするならば、それはそれを害悪とみなす社会の価値観を否定していることになる。
有体に言ってしまえば、社会に喧嘩を売っている。ペドフィリア的感性は社会的に害悪である。実際に児童を性的に虐待すれば、それは実際的な害悪であるし、社会の多くの人は、そのような想像力もまた害悪とみなす。そして、それを肯定的に扱おうとするならば、それは社会に喧嘩を売っているとみなされても、やむをえない。


これは何もロリコン的、ペドファイル的想像力に限定されない。私たちは社会的に認められにくい文化を積極的に取り上げてきたしこれからも取り上げていくことが間違いない。男子を女装させかわいく振る舞わせる表現が「男の娘」としてここ近年高い評価を得てきた。様々な男性同士のキャラクターをBLややおいの文化圏では性的に絡ませてきた。近親者間の性愛を肯定的に描く作品もたくさん存在する。可愛らしい女の子が腹を殴られているようなイラストが「リョナ」というジャンルとして地歩を築きつつある。
さらに、私たちはそれらの表現に対して、屈託があまり無い。著者も批評者も「なぜその表現が必要なのか」「なぜそれを肯定的に描くのか」という説明を基本的にあまりしない。なぜならば、批評性を持って作為的にタブーを乗り越える行為を私たちは行っているのではなく、無前提にフラットにある文化をスノッブな感性で拾い上げているからである。


彼ら、つまり社会的に一般的な「彼ら」はこれを恐れる。いい大人が屈託なく子ども向けアニメを視聴する、背徳的な表現を屈託なく行う、暴力的な表現を屈託なく可愛らしい表現に接続する。そこにはタブーを作為的に乗り越えるという意志はない。当たり前に空気を吸うようにタブーを乗り越えている。
20世紀の文学にはあえてタブーを乗り越える意志があった、しかし今のオタクはあえてタブーを乗り越えているのではなく、空気を吸うように、タブーを乗り越えているのである。これを、多くの普通の人は理解できないし、また恐怖を感じる。それが多分当たり前の感性であるが、私たちはスーパーフラットという地平において、そこを容易に乗り越えているのである。


これが、きっとオタクの「原罪」である。オタク的文化ではタブーを容易に屈託なく乗り越える*1。オタクは鼻で笑うだろう「しょせんフィクションじゃないか」と。しかし、フィクションであっても容易にタブーを乗り越えることは、やはり認められ難い。そこが致命的な齟齬であり、軋轢であり、対立の源泉である。そしてだからこその「原罪」なのである。

社会との折り合い

さて、前項ではオタク文化が容易にタブーを乗り越えて表現を行うことにより社会が恐れるということを「原罪」と規定した。これは、個別の文化的なものが問題なのではなく、タブー視されるものを積極的に取り上げ、そして屈託なく価値づけるオタクの運動そのものが胚胎する問題であって、小手先の問題ではない。そして、だからこその「原罪」である。
しかし、現実的に私たちは社会的に生きており、社会的な反感を放置しては生きていくことができない。それは具体的には規制という形で姿を現し、オタク文化を破壊し、あるいは追いつめる。であれば、私たちはどこかで社会と折り合いをつけなければならない。その意味で生島氏の「だったら、規制されるぞ、終わりだぞ」という指摘は正しい。
しかし「原罪」はただの「罪」でなく「原罪」であるがゆえに、それを小手先の手段で解消することは出来ない。ゆえに一般社会の反感に対してオタクは「表現の自由」「内心の自由」「人権」「フィクションとは関係ない」といった木で鼻をくくったような回答しか、基本的には用意できない。
だから、生島氏の提案、例えば子ども向けアニメで大きなお友達にカウンセリングを受けるように勧める、といったものは困難である。ロリコン的、ペドフィリア的感性を否定的に処理するカウンセリングは、その感性をフラットに扱い拾い上げるオタク的手法を根本的に否定する。また、クリエイターを編集者によるカウンセリングにより創造性を削がないようにしながらコントロールしつつ、消費者側を医師によるカウンセリングでコントロールするという手法も、消費者が同人というチャンネルを通じて自ら作品を制作し発表することが当然となった現代では、あまりに陳腐であると評価されるだろう。
最初に紹介したtogetterでhu氏が指摘した通り、オタクはなし崩し的に、その人口の増加と経済規模の拡大に伴って、社会的に認知されるようになってきた。これは、必然ではある。社会的に容認されるように振る舞い社会的な認知を得る方法は、オタク文化の運動が根本的な「原罪」を有するために、極めて困難であると言わざるを得ない。
生島氏はオタク文化のコンテンツとしての将来性について、評価をしている。そして、コンテンツとしての評価を確立させるために社会的認知が必要であることを議論する。しかし、コンテンツとして評価されるオタク文化は社会的認知に反旗を翻すことにより形作られてきた。であれば、コンテンツとしての評価を確立させるためには、社会的認知に反旗を翻さなければならないし、逆に社会的認知を得ようとすればコンテンツの本質的な価値を毀損しなければならなくなる。これは完全な矛盾を来たしている。現状ではなし崩し的な理解以外の手段をもって両立させることは極めて困難であると私は判断せざるをえない。

終わりに

前項までで論じたように、オタク文化はその本質に社会的な害悪という社会的認知を「原罪」として胚胎せざるをえない。そしてそうであるがゆえに社会的認知を得るために「原罪」を払拭することが困難である。
さて、ここでキリスト教に戻ろう。キリストはその愛により磔となり、そして人類を原罪から救済したと言われる。本質的な、そして不可避な罪を償いうるのは「愛」だったのだ。私はここに着目したい。
現実的に見てみれば、犯罪を犯す人間は社会に一定数おり、現代日本において特にこの問題と関連付けられるような子どもを被害にあわせる犯罪は低い水準に据え置かれている。また、同時にほとんどのオタクは子どもを狙った犯罪を犯さない。それが事実である。
であれば、多くの父母は恐怖を覚える必要はない。得体の知れない他者を人は恐怖し嫌悪する。しかし、それでも善きサマリア人は追剥の被害者を助けた。であれば、私たちオタクはもちろん権利主張をしなければならないこともあるにせよ、基本的には彼らの恐怖をやわらげ、善きサマリア人として振る舞わなければならない。恐怖する人に、さらに恐怖を与えても、それは対立が苛烈になるだけである。同時に恐怖を覚える人も、それを無条件の前提とせずに彼らに正面から向き合うべきである。
はっきり言ってしまえば、一連の問題は、不幸なすれ違いである。実質的にオタクはオタクであると同時に普通の社会人であり普通の学生でもある。本当は何も恐れることはないはずである。同時に彼らが規制を訴え嫌悪するのも、また誤解にすぎない。
どちらが先に手を差し伸べるべきか、と私は結論をしない。しかし、非オタクは周囲のオタクに少しだけ優しくしてほしい。また、オタクは周囲の非オタクの恐怖を理解して善き隣人として振る舞うべきである。
まだ、時間はあるし、なし崩し的理解は一定の相互理解を生み出した。きれい事ではあるかもしれないが、そうやって一歩一歩改善していくより他の手段を私は知らない。
私もまた、褒められたような振る舞いをしてきた人間ではない、しかし、それでもよりマシな未来のために「愛」の可能性に賭けたい。*2

*1:付言すると、この行為に対して、日本よりキリスト教的価値観が根強い欧米では反発が強くなるのは当たり前である。

*2:本当は、私はきれいごとなんて嫌いだし、クリスチャンでもない。でも、マシな未来を目指したいのだ。

注意:ここに書かれていることは筆者の個人的見解であり所属する組織などの意志を表すものではありません。