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面白ければいいんじゃない?

やくたいのないこと、痛々しいことばかり書きます。

少女、お約束、あるいは私たちのリアルについて

文化

はじめに

さて、右子左子論争というものがある。要は、違った種類のキャラクターを並べて「見てたい女の子」と「彼女にしたい女の子」というものを対比させた絵についての、喧々諤々の論争である。その論争を受けて、id:TM2501氏は以下のようなエントリを発表した。
コンテンツと生活の距離感ver1,02〜なぜ右子左子論争は拡大したのか?〜 - とある青二才の斜方前進
TM2051氏の議論は、アニメの視聴環境がテレビでアニメ視聴→2chなどで意見交換というものからニコニコ動画でアニメ視聴→その場でコメントという形態に変化することにより、箱庭的な世界に突っ込みを入れる形の作品群が形成されたと論じている。

アニメの見方が「一人で見る(1度だけストーリーをじっくり見て、後でみんなで魅力を語り合う)」ところから、「ニコ動・ひまわり動画などでみんなと見る(リアクションや合いの手まで楽しみながら見る)」という風にニコ動登場後のアニメは変化していった。
(中略)
僕は最近のアニメ…とりわけ日常アニメを見てると「一人で見る」→「共有して楽しむ」の先へ進んだと思うんです。それが「のぞき込む」ような楽しみかた。「動物園的」とでもいえばいいんでしょうかね?アニメと現実に大きなついたてがあって、それを「ああ…私もパンダみたいに一日笹食べてゴロゴロしてたい」とありもしない妄想にふけってる感じ。
「箱庭的」「日本庭園的」「金魚鉢的」と言った方が適切かな?アニメから女の子の可愛いと思える部分だけを抽出してありえない仮想現実に小さくまとめてしまう。それをはるか上から高みの見物をする視聴者がいる。

そして、TM2501氏はそのようなコンテンツの受容に対して反対を唱える。

あらゆるフィクションやエンタメを「妄想」による「優しい嘘(嫌な部分に目をつむる)」の議論をやることに僕個人は反対だ。

恐らく、この一連の見解は一面において正しい。しかしながら、それらの作品群はそれだけの理由から形成されたのではないと私は考える。だから、私はこれを読んで、すぐさまブクマコメントを付けた。

いや、私たちはもはや人をキャラクター、萌え(燃え)要素の集合体としてしか見られないのだ。意識の上で人もキャラクターも等価なんだ。もう、「人」は滅んでしまって居ないんだ!

私のコメントは、要するに、ゼロ年代の残滓のようなものである。もはやちょっとカビの生え始めた考えなのかもしれない。というか、あまりに「未来にキスを」的だ。しかし、私はコンテンツ受容の変化と作品の変化は媒体の変容のみに規定されてきたのではなく、むしろそのような消費形態がいわゆるゼロ年代に準備されたと考えるのだ。


ここで本稿では、いわゆる日常系に至る道を見ながら、いかにして斯様なコンテンツ受容がなされるようになったかを観察し、そしてその上で、TM2501氏が反対するそのコンテンツ受容こそ未来を作り上げるもの、いや、私が好きなだけなのかもしれないが、それを議論する。

キャラクター、お約束の束

さて、そもそも、ここで出てくる右子と左子は「キャラクター」である。キャラクターとはなんなのであろうか? ここで既に古典的とも言える議論を再度確認しよう。東浩紀は「動物化するポストモダン」においてデータベースから引用されたシュミラークルとしてのキャラクターを議論した。東はその源流をデ・ジ・キャラットに求めたが、しかし、そもそもマンガやアニメにおける表現は、デフォルメ化を前提としたものであったのであり、いわば萌え要素的な概念はごく初期からオタク表現に胚胎していたと考えて差し支えないだろう。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


ここで、このようなキャラクターの在り方を「お約束の束」と考えてみよう。アホ毛も猫耳も口調も、基本的にそれらはお約束である。「このキャラクターはこうするだろう」的なキャラクターの在り方を「可能性の束」と東は論じ、そうであるがゆえに別の世界にキャラクターが放り込まれてもその同一性を維持し二次創作を可能とする背景を議論した。同時に、基本的には「お約束」というのは物語の概念である。「遅刻しそうになった女子生徒がトーストを齧りながら走っていると男の子とぶつかってパンツを見られ張り倒してから学校に行くとその男の子は転校生だった」というのは、典型的なお約束である。そもそも、言語そのものが言語ゲーム的な見方からすればお約束である。ナポリで顎を外側にこするのが侮蔑である、というのはまさに「お約束」なのである。
その意味で、実は、キャラクターという存在も、物語という存在も、お約束の束として把握できる。もちろん、その中にお約束の間の矛盾があり、葛藤があり、衝突があり… 様々な動きがある。しかし、それらは前提とするお約束があるからこそ成立するものである。例えば、じょしらくは「落語家」というものに対するシニフィエが(それなりに)一致するからこそ意味がある。クールビューティーなメガネ女子のキャラクターというのが一致するからこそ、丸京というキャラクターが立つ。
実は、これはアニメ作品に限ったことではない。いや、もっと言えばフィクションに限ったことではない。多くの職業人はその職場でジャーゴンを使う。まさに、言語ゲームにおける石工の例えと同じである。石工が持ってくる石を弟子に指図するように、私たちはお約束の中に生きている。歴史もしかりである。歴史認識はまさにお約束であり、だからこそ歴史認識問題というのが生じる。historyはstoryなのである。
現代の私たちは、よく「いじられキャラ」だとか「かわいい系」だとか、そういった形で人をお約束の枠に押し込む。いや、現代どころか昔から人はそうしていたとは言える。しかし、このキャラクター的、お約束的世界観は加速度的に社会を支配しはじめている。分業化が進んだ世界において、私たちは職場で学校で、参加者がキャラクターというお約束を着込み、ジャーゴンというお約束を口から垂れ流し、お約束を前提とした活動を行っている。
これは、加速度的に情報化が進む現代においてはやむを得ないことである。私たちは今、ほんの10年前から見ても2倍の情報量の流通の中にいる*1。前近代の農民と比べれば、何百倍もの情報を受けているだろう。そこにおいて、人間が情報を処理するためには、情報を類型化し整理しお約束に基づいて判断をしていくしかない。LINEやfacebookを使い、学内だけでなく学外での活動に奔走し、百社以上の会社にエントリーする学生は、お約束の束に寄りかからなければ混乱するしかないだろう。
このような世界でオタク的振る舞いはまさに適合的である「いい年こいた大人がアニメを見るバカバカしさを認識しながら、同時にその世界にのめりこむ」というのは、それが(ある種ばかばかしい)お約束であることを認識しながらお約束に飛び込む人生と同じ振る舞いである。
まさに、現代の我々はアニメのキャラクターと同じように、キャラクターとして現実というお約束で出来た物語を生きるしかないのである。

美少女ゲームの時代の終わり

近年、美少女ゲームの売り上げが芳しくない。しかし、明らかにそれは一つの時代を築いていた。ここで、一つ、美少女ゲームの最盛期、そして終わりの始まりに出現した作品、Airを考えてみよう。オタクたちは美少女ゲームの時代において、お約束の束としてのキャラクターが駆動するお約束の束としての物語を「選択肢のある」ゲームという形で顕著な形で発展させた。
しかし、これは崩壊した。更科修一郎は、Airというゲームをこう評した。

男の子が少女に歴史を仮託することの限界を表し、観鈴という少女を物語の犠牲にすることでしか歴史を語ることができない「僕たちの種族」の問題だった。
(中略)
少女幻想の限界を指摘することは、男の子である我々が積み上げてきた虚構――歴史の終わりだった。
更科修一郎,青の時代の終焉、少女に仮託した者の崩壊,美少女ゲームの臨界点+1,2004,波状言論

美少女ゲームの胚胎していた問題は何だったのか。ササキバラ・ゴウは美少女の現代史で美少女ゲームが選択肢を通じて責任という娯楽、実存を与えているということを論じた。実は、これ自身が問題だった。

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)


責任を負う、ということは、不本意な結果についても責任を負わなければならない。しかし、美少女ゲームでは多くの場合巧妙に隠蔽される。普通数名程度のヒロインが出る美少女ゲームにおいて、主人公の、つまりプレイヤーの選択により救済が得られたヒロインが居る。しかし、別のルートをたどれば、そのヒロインは救済されない。美少女ゲームは本質的に問題を胚胎していたのである。
斯様にして、自尊心補充システムとしての美少女ゲームは崩壊した。そして、Airでは主人公は最終的に物語に介入できず、ただ悲劇を俯瞰することしかできないカラスへとその姿を変えた。
しかし、これが解決策であった。当時はあまり気づかれていなかったが。


いわゆる日常系作品で美少女ゲームのプレイヤーという存在は消滅しカラス的観察者としての我々が残った。しかし、同時に美少女ゲームのリアリティを担保していた長大な漫才コミュニケーションは残った。しかし、美少女ゲームが選択肢を通じて提供していた責任という娯楽は消滅した。
ここで問題になるのは、責任という娯楽、あるいは実存の補充、あるいは承認、そういったものである。そして、それがコミュニケーション的メディアによって実現されたと考えられる。ニコニコ動画twitterは、PC(プレイヤーキャラクター)として排除された者が、他のプレイヤーとともにあるプレイヤーあるいは、P、つまりプロデューサーとして成立することを可能とした。あるいは、聖地巡礼もそうである。あれは、PCになれないプレイヤーが作品世界に飛び込む行為であると言える。
私たちはAirによって少女に依拠した実存という時代の終焉から、カラスとなったプレイヤーの時代へと軸足を移した。しかし、それは美少女ゲームの時代がまさに準備をしていたのである。

現実なんて存在しない

私たちが生きている現実とはなんなのだろうか? 経済的現実を言えば、年収や税金や食費や社会保険料というようなものが存在する。肉体的現実としては病気があり、背の高さがあり、顔の良し悪しがある。しかし、これらはやはりある種のフィクションである。金、などというものは、本質的にみんなが信じているから通用するという以上のものではない。老衰はだれもが罹患し必ず死に至る難病であるが、だれもこれを病としては見ていない。
結局のところ、お約束の束という意味では、現実もフィクションも同等である。また、フィクションで感動し怒り悲しむことが出来るならば、その感情は現実の私たちが抱いた現実のものであると言える。フィクションが事実でなくても、フィクションで動かされた感情は事実である。

もしも、人間やキャラを言葉や特徴にとらわれていたら、それは記号化された概念に成り果て、最後はそれ自体が意味を持たず、本質は常に視聴者による論争になっていく。(だから、右子・左子は「存在の一人歩き」が生じた。本質は右子・左子というヒロインではなく、それをいかにして愛でられるように料理するか…という妄想する人間にこそあるからね)

http://d.hatena.ne.jp/TM2501/20120929/1348906454

ここにははっきり反論しよう。そう、むしろ、そういう風にしか、人間もキャラクターも存在しえない。現実との写像関係にある言葉を用いること、語りえぬことは沈黙せねばならないこと、そういう見立ても悪くはないが、むしろそちらにこそ意味はない。
現実と対となっていることは真に重要なことではない。なぜならば、その現実すらもお約束の束に過ぎないからだ。現実逃避は現実からフィクションへ逃避することだが、フィクションから現実に逃避することもまた出来るのである。結局は、どちらのお約束の束を認め、選んで、そこでプレイヤーキャラクターとして選択肢をつかんでいくか、というだけに過ぎない。本当の意味は私たちがどのお約束の束を選ぶのか、という部分にこそ存在する。

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)


有名なコピペで「人生は神ゲー」あるいは「人生はクソゲー」というものがある。人生が神ゲーなのかクソゲーなのかは、どうでもいい。問題は人生をゲームに比喩していることだ。自分というキャラクターを演じながら、歴史というストーリーで選択肢をつかむ私たちは、まさにゲームの中にいる。だからこそ、私が電車でたまたま同じ車両に乗った女性は右子かもしれないし、あるいは私が職場で話した女性は左子かもしれない。
そこにはもはや「人間」は存在していないし大文字の歴史も終焉を迎えてしまっている。

二十一世紀人類の特色。自己の内的世界をそのまま外的世界に敷衍して(あるいは外的世界を内的世界に取り込んで)認識すること。あるいは、世界を、現実そのままではなく、自分の都合のよいように解釈すること。そのことを、ここでは「世界の読み替え」と呼ぶ。そして美少女ゲームとは、「『世界の読み替え』という二十一世紀人類特有のテクノロジーを内包したゲーム」と定義される
元長柾木,回想――祭りが始まり、時代が終わった,美少女ゲームの臨界点,2004,波状言論

世界はお約束で出来ている。そしてお約束は常に読み替えられる。人はお約束の中でしか生きていけないが、お約束を自由に選ぶことが出来る。短い二十世紀、89年が終わってからの人類は疾風怒濤の二十世紀にもはや戻ることは出来ない。だから、私たちにとってのリアリズムは、まさにゲーム的にしか存在しえない。
だからこそ、私たちは自分たちの周りにこそ、右子と左子を見出さなければならないのだ。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

*1:平成23年度情報流通インデックス http://www.soumu.go.jp/iicp/chousakenkyu/data/research/survey/telecom/2011/2011-r-01.pdf

注意:ここに書かれていることは筆者の個人的見解であり所属する組織などの意志を表すものではありません。